私の腰痛人生。
akkyです!
先日、37歳、ピラティスを始める。 を書きました。
ピラティスを始めて20数回。
あれほどどん底な痛みと戦っていた日々が嘘のように腰痛がほぼなくなりました。
では、そもそもなぜ腰が痛くなったんだっけ?と、思い、そう言えば結構な年月この腰痛君と共存していたんだなぁと振り返りも込めて。
『私の腰痛人生。』です。どうぞ!
時は27年前に遡ります。
小学4年生から、母がママさんバレーをしていたことがきっかけで、バレーボールを始めました🏐
この頃すでに身長159㎝と、背は高い方でした。
当時はそのおかげで早めにレギュラー入りすることが出来たりとラッキーなことも多くバレーボールにのめり込むようになりました。
先輩たちとのプレーは緊張するけれど、与えられた役割を全うする為にプレーする誇らしさ、チーム全体としてどう動くかを計算する楽しさを子どもながらに楽しめていたと思いますし、いまに繋がっているなと感じています。
もともとおっとりな性格も、このクラブ活動により活発な性格へと矯正されていったのだと思います🙄
こうして熱心な監督の指導もあって、バレーボールは私の中で好きで打ち込める唯一のものとなりました。
しかし、中学3年生のころ腰痛を発症😱
高みを目指してやれトレーニングだ、やれ練習だといきたいところがリハビリ三昧。痛みを誤魔化しながらプレーしなければならない状況になってしまったのです。
それでもバレーボールは続けたいという一心でケアしながら不安定な腰痛と付き合っていくことを選択しました。
高校に入り、県内では有名な先輩選手と苦楽をともにできるということもあって、さらにスポ根魂に火がついた矢先、またも腰に激痛が走り、診断結果は[椎間板ヘルニア]。
なんだかもう絶望感とやるせなさで心中穏やかではない日々が続きました。
その頃、いとこの家が学校に近いことから、朝練、夜練、休日の練習にも備えて下宿させてもらっていました。
「バレーボールやるために!」と、宣言して住まわせてもらっていたこともあり、故障したからと弱音を吐いて辞めるわけにもいかないという強い思いがありましたし、逆にこの状況だったからこそ、安易に辞めるという選択肢を存在させることなくいれたのだと思います。
ヘルニアは手術したとて完治はないと知り、この腰痛とうまく付き合いながら、チームではマネージャー兼コーチとして関わり続けることを選択したのです。
そんなこんなで、高校3年生の最後の最後にあたる後輩の春高予選を見届け、一切悔いなくバレーボール人生を終えました。
めでたし、めでたし、、、。なのですが、腰痛からは引退することが出来ず、今に至っていたということなのです。
疲れがたまると…
顕著に腰痛が発症するのはやはり疲れがたまってきたときですね。
腰痛持ちの方はよくおわかりでしょう。このストレスったら無いですよね。
頑張りたいのに、頑張れない。
優しい友人は、「もう十分頑張っているってことだよ」って言ってくれたことも。
いま、腰痛で悩んでいる方は放おっておかないでくださいね。
良くなる方法、伝授しますから♡